06

5月

2011

「日々変化する考え方、日々変わる常識①」

ミモレ農園 菜の花

[東日本大震災・原発被害・復旧復興という中で正しく生きる]

 

2011年3月11日、東日本大震災が起きました。津波や原発の被害は今までに体験した事のないような規模になっています。この日以来、日本は変わりました。今までに聞いたことのない言葉を耳にするようになりました。

 

テレビを通して知る情報だけでも、色々なことを考え、被災していない人々も、何らかの影響を受けている、毎日の生活の中から……知り・感じ・考える・そして思う、未来のことを……そして願う、復旧復興を……頑張ってほしいという想いと共に……。こんな感情を繰り返す日々を送りながら……2か月……。今まで、当たり前と思っていた日常の暮らし、常識、感情が変化している自分を感じるこの頃です。

 

当初は、マスコミの情報、特にテレビからの情報を頼りに、この現状を理解していたつもりでした。

 

被災地を訪れて

 

4月6日、福島県の相馬市にお見舞いに出かけました。新幹線で那須塩原まで行き、そこからレンタカーで……、午前10時から午後8時半まで車を借りていました。

 

現地には、2時間足らずの滞在でした。尋ねた知人は津波の被害はありませんでしたが、原発の被害で、住まいを移転しておられました。海岸に近い所の津波の被害を目の当たりにして、言葉を失いました。まだ見つかっていない人たちの事を思うと涙が自然と出てきました。大きな船が陸にある光景、がれきの山、海を見ると、まるで海に家を建てたように流されている家々。松林の2~3メートル上の枝に引っかかっている、シート。この世の光景とは思えませんでした。これが三陸、500キロに渡っていることを考えると、胸が張り裂けそうでした。ここに町があったという所は、残っている海水も手伝い、水田のようでした。

 

そこに、さぎの群れが降り立ち、餌をさがしている光景に出会い、私たち人間は自然の摂理の中で生かされているという。ごく当たり前のことを思い出しました。この悲惨な現状をこの目で確認することができ、今まで、考えていた考え方が大きく変わりました。この日以来、私は情報の中から、被災に会った人々の思い、応援する言葉を追うようになりました。そして、復興するまで共に生きて行こうと考えました。

 

みんなの声を聞いて巡る想い

 

テレビから伝わる皆の声を書き留めてみました。一部を載せます。今、日本が大きく変わって行っているような気がしてきます。今まで閉ざしていた心が開いてきているような気もします。今までは特別な人からの情報が当たり前でしたが、被災された人、応援する人、利害が絡んでいる人、それぞれの声が聞こえてきます。そのそれぞれの立場の声を聴いていると自分の意志がハッキリしてきて、自分なりの意見が構築され、行動力につながっている気がしています。



書き留めた言葉から

 

  • 日本の力を……信じている。

 

  • 震災も津波も自然の力、草木を育て、花を咲かすのも自然の力、暖かさと豊かさを感じる自然から元気と力をもらって生きる。

 

  • 立ち上がろう……日本。

 

  • 一緒に、力を合わせて頑張ろう。

 

  • 仲間と一緒に、奇跡を起こそう。

 

  • 拾った命なら、前を向いて行こう。

 

  • 何年か後に、ああだったねと言えるように生きて行きたい。

 

  • 亡くなった人の分まで、私は生きる。

 

  • 私の生活のすべてを奪っていった津波に対し、悔しさは抑えきれないが、しかし、私は津波 を憎むことは決してしない。この現実を乗り越えて強く生きることを誓う。

 

  • 生と死の境のとき、生きなきゃ自分はここで死んではおられないと……。

 

とある公務員の方のお話し

 

強い地震の後、役所内は騒然となり、その時間は続いた、日付が変わったことにも気づかなかった。妻と息子は避難していると信じて……ずっと、仕事をしていた。夜中、自転車でマンションに向かった。妻と息子がマンションには居ないことがわかった。妻の実家のある町までの、3・5キロの道を歩いて行った。その町は、壊滅的な被害を受けていた。多くの人を離れ離れにしていた。妻と息子の消息がわからなかった。その後、お義母さんの目の前で、津波に流されてしまったことを聞かされた。息子を抱いたまま一緒に流されたという。3月15日小さな棺に入ったわが子と対面した。まだ8か月だった。結婚3年目の出来事だった。

 

役所の窓口には、毎日多くの人がやって来る。そこで多くの悲しみと出会った。  私は1枚の紙を役所の壁に貼った。

 

「私は、最愛の息子と妻を津波で失いました。今からは、いつまでも、誇れる夫であり、父親であり続けるよう、生きていくことを誓います。被災された皆さんに……苦しいけど、負けないで」と。家族と暮らした何でもない日々が懐かしい。1か月目、あの時間が近づいてくる。皆で手をつなぎ、輪を作り、その時間を祈った。黙とう……。音楽が流れる……。私は考えた。2人に見せたり体験させてあげられなかった、楽しいこと、嬉しいことを自分が生きて探すことで、一緒にそうした思い出を作れることを……。  季節が巡ってくる……。この町の桜ももうすぐ満開になる……。

 

重なる想い

 

この番組を見た時は、悲しくて身の置き所のないものを感じました。そして、私が遠い昔、体験した、次男が生まれた次の日に他界した前の夫のことが、かげろうのように、思い出されてきました。

 

当時29才でした。約36年間という月日は、思い出や感情を包み込んで、穏やかにしてくれているということも、気が付きました。子供と共に生きることに、一生懸命だった過去の時も思い出し……考えました。66才を迎えた今、私はこの国と共にもう一度、頑張って生きてみることを……。大きなことは出来なくても、小さなことを続けることから……。そう考えると、心が前向きになり、体の芯が暖かくなるような気がしました。

 

ミモレ農園 ほうれんそう

今、震災・原発の被害の影響は、西日本に暮らす私たちの所まで広がっています……。当然、日本全土に、世界にと広がることになると思います。

 

放射能の風評被害も現実にあることですし……。それに伴う、経済への影響を考えると、予測のつかない現状に、ただ見守ることしか出来ないような気がしていましたが、最近、私は、力強く生きて繁栄するという考え方を選ぶことにしました。

 

少なくとも、BMD環境美容予防医学協会と内閣府認証NPO法人グリーンヘルプジャパンとBMD総合学院の活動に、取り入れて行きたいと考えました。この震災の後、私が研究開発してきた、BMDシステムの数々の商品など氣代謝生理学の考え方などが、こんなにも変化した、今からの社会に通用しうるものか検討してみました。

 

今からのBMDとNPO法人グリーンヘルプジャパン

 

被災された方々からの情報なども参考にしながら……受け入れ可能であることを確信いたしました。新しい時代は感性が豊かになり、人々は敏感になるといわれています。このことは、体の中の電気信号の世界が敏感になることであり、特に、脳は氣=電気信号=エネルギーの物理学の世界と関係が深い、こうしたことを予測して、新しい時代になったときに備えた商品を開発して来ていました。

 

ひのきの葉には揮発性物質や高分子が多く含まれているため、微細領域を含む、総合科学の分野の属する科学でないと研究が進められなかったことが良かったように思います。BMDシステムは微細領域を含む物理学の世界を基本とした科学です。この考え方は、最近、認められるようになりました。

 

内閣府認証NPO法人グリーンヘルプジャパンについては、法務省OBの方の指導により、BMDシステムの商品を一般流通に流さず、NPOの活動財源として使うことを勧められました。 

 

このNPO法人は、国から援助を受けないことを基本としています。この度の被災地への支援活動も長期に渡って進められるよう考えています。

 

当初は、この考え方が正しいのかどうか分かりませんでした。このNPO法人の趣旨を説明しても、理解してもらうのが大変でした。近年になって、徐々に理解者が増えてきていましたが、この震災後……は、この収益で、NPO活動を進めるということを説明するとしっかりと理解して頂けるようになりました。いろいろな形からできる支援の輪が一般に理解されてきたことによると考えています。NPO会員の方は支援の活動に繋がっていることをご理解下さい。

 

今になって、この方法を勧めていただいた法務省OBの方に感謝しています。

 

BMD総合学院は、7年間お休みをして再開しました生涯学習の講座ですが、2年目に入り、成果は上がっていますが……、「一緒に、力を合わせて頑張ろう。」という思いをリード出来る人材の育成に力を入れていきたいと考えます。

 

こう考えてみますと……、ちょっと、早いとか、難しいとか言われてきたBMDグループが活動できる時代になってきているような気がしてきております。

 

力の続く限り……私は頑張りたいです。